草取りと農業の高齢化
草の勢い。
ますます盛んです。
ある一画をキレイにしている間に他がボウボウ。それをまたキレイにしている間に最初の場所がまた繁茂してくる。
結構大変です。
梅雨の雨を受けて作物も元気に成長する時期ですが、それは同時に草との戦い。
草は土を進化させるために必要不可欠なものですが、あんまり繁茂しているようだと作物の日照が妨げられたりするのでどいてもらわなければなりません。
自分なんかは農家としては若い方なのでなんとかなりますが、これがお年寄りなら本当に大変。除草剤で一発!
そんな気持ちもよく分かります。
肥料・農薬農業ならまだしも無農薬や無肥料で栽培するならやはり担い手は若者でないと!
農業の高齢化は本当に深刻な問題、現場からそんなことを思います。
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自然栽培は野菜に任せる!
無肥料無農薬で絹さやの栽培を今年から始めました。
通常絹さやを育てる場合は支柱を立て弦が巻きつくように誘引してあげるのですが、うまく巻かない。
どうも支柱が太すぎたようなのです。
細い弦にはそれにふさわしい太さの支柱が必要、そんなことを感じました。
たまたま何かの動画で絹さや栽培のものをみたのですが、その動画の人は支柱は木の枝みたいな適当なものを簡単に添えているだけ。
絹さやもあまり巻き付いている様子はありませんでした。でも立派に実を付けたいたので自分もこれを真似てみる。
すると見事に実をつけ鈴なりな感じです。
絹さやを作るならガッチリ支柱を立てなければ!そんな風に思っていたのですがあまり杓子定規になる必要もないようです。
支柱があろうがなかろうが、作物は生き残り子孫を残すための努力を懸命にするもの。人間があーだこーだと躍起になるのはやはり違うのだろうと絹さやを見て思いました。
浅知恵に依らず自然に任せる!
適材適所。
そんな言葉があります。
適切な場所に適切なものを配置する。そのことで大輪の花を咲かせることができる。
仕事などでもよく使われます。
確かに反論の余地が無いくらいごもっともなことなのですが、それを見抜くことがムズカシイ・・・。
それができれば苦労しないよ!
そんな嘆きも聞こえてきそうです。
これは農業においても同じです。
土の状態、土地の傾斜などを見て適切な作物を植える。それさえ合わせることができれば栽培の苦労も軽減できるというわけです。
結局人の目や経験などに頼るのですが、それが本当に合っているのかどうかは分からない。粗く濁った人間の目ではなかなか見抜くことができない面だってあるからです。
そこで自分を過信することなく自然界に選抜させる。この方法で自分はタネを播いています。
つまりタネをサヤごと取って充分枯れてから空いている場所にどんどん置いていく。
その場所が適所ならば発芽し作物は大きくなっていくことでしょう。
でもそうでないなら発芽せずに終わる、このような方法を選んでいるわけです。
それでタネを播いた小松菜が見事発芽。これは適所を得たのだなと解釈。大きくなりまたタネを採ることで土の性能をタネが正確に読み込んだ素晴らしい野菜を収穫できるようになる。
そう踏んでのことです。
肥料も農薬も使わない自然栽培を行う以上は学ぶべき対象は自然界です。自分を過信することなく自然に委ねる。
これが極意だろうと想っているわけです。
ヘビとカエルに学ぶこと
今日は朝5時から水やり。
タネを植えたところを重点的に行いました。
子ガエルがにわかに少なくなってきたなと思っていたところ、ヘビの赤ちゃんに遭遇。
直径20センチ位の短くて細いヘビだったのですが、私の接近に気づき急いで草むらに逃げ込んでしまいました。
なるほど子ガエルが減った理由はこのヘビの仕業ですね。
カエルばかりが増えないように、それが自然界の意志なのでしょう。カエルのいる場所には必ず蛇がいる。
個体調整ともいうべき自然の妙で毎年この循環が為されているわけです。
自然界は極端を嫌う、そんな言葉がありますがそれぞれが生き残るのに必要な食物連鎖の風景を今日は朝から目の当たりにしました。
カエルはよくてヘビは悪い、最近子ガエルの可愛さに夢中だったのですが、それも極端な感情なのだなと少々反省しましたよ。
自然界は完全で絶妙なものなでしょうね。
自然栽培は自然界を師に仰ぐ!
孵化したチビガエルがウチの畑にたくさんいます。
保護色を利用して草むらに忍ぶ。ヘビなどから見を守りつつ虫などを狙います。
草がないとカエルは生きられないわけです。
多くの畑では草を目の敵にして1本も残さないように徹底排除します。排除すればするほど、キレイに管理していると褒め称えられるわけです。
確かに人には評判の良い行為ですが、自然界を教師に仰ぐ無肥料・自然栽培の世界ではいささか不自然。
自然の野山で草が一本もなく土が露わになっているところはないのが普通だからです。
草がなければカエルも来ない。身を守る場所がないのでヘビなどに簡単に食われてしまいます。
でもウチの畑のように草を敵視しない場所だとカエルたちも安心して飛び回り忍ぶことができます。
それによりアブラムシを食べたり、青虫を捕食したりして栽培に実に都合が良い行いをしてくれるのです。
草を無条件に敵視すると自然界の循環の輪も断ち切ることになってしまう。
畑を飛び回るチビカエルを見ていてそんなことを思います。
ホタルの光よ永遠に!
ホタルは清流には住めない。
反対に汚れた川でも生きることができない。
ほどほどに清く、そこそこ汚れている。このような場所を好むようなのです。
この時期はホタルがたくさん飛び交い恋の時期を迎えているわけですが、今は水田の風景からホタルは消えてしまいました。
用水路をコンクリートで固めて草むらを除外。草むらがあったとしても除草剤で枯らしてしまう。
田んぼは農薬でとても行きられる環境にない。
このようにしてホタルは日本の田園風景から消滅していったわけです。
でも近年は若干ながら復活傾向にある。農薬多投に対する反省と里山の美しい光景を次世代に!
このような焦りも加わってホタルの放流なども全国で行われているようなのです。
ウチの近所でも小学校が音頭を取って冬にホタルを放流します。それらが適した環境のもと、この時期優しく柔らかな光を放っています。
昨日はホタルの隠れた名所に行ってきたのですが、たくさんの輝きはまさに星空のよう。
このような美しい光景をもう一度復活させたい。そんなことを思いました。
農薬を使うことの代償は人体のみならず周囲の環境をも破壊してしまう。ホタルの発する警告に耳を傾け、生き物と共生できる社会を目指すのがこれからの方向性なのでしょう。
それには農産物の作り手の責任も大きいのですが、同様に買う側の責任も大きい。
どんなものを選び何を良しとして投資をするのか?
買い支えるに値する食べものはどんなものか?農村と都市との連携がますます不可欠だと思います。
野菜に余計な手出しをするな!
余計な手出し。
私たちはついついしてしまうものです。
自らの経験や予測、それらを人を含め他の生き物に当てはめお節介を焼く。このようなケースが少なくないのです。
それは田畑に於いても同じです。
作物は自分で育つだけの力を持っているのに無力だと判断して余計な手出しをする。
水をやらなきゃ!肥料をあげなきゃ!!
こんな感じで色々手を下すわけです。
適切な肥料の量など作物自身に聞かないと分からないものです。そして彼らは自らに必要な養分を自分で探し、必要な量だけを吸収していくわけです。
それを人間が窒素肥料はこのくらいで、カリはこうで、リン酸はこう・・・。
こんな感じで食べきれない量の養分を与えてしまえば、作物は肥大化していく。それは肥満やメタボの野菜、そんな風に言えるのでしょう。
肥料をたっぷり与えた野菜の特徴は葉の色が濃く、丈が高くて葉っぱが多いこと。それは余分に摂取してしまった肥料をなんとか消化しようと懸命になっている姿と考えられます。
肥料を与えずに育った自然栽培野菜は丈が短く葉っぱが少なく、色が淡い。
このような特徴が見られます。
野菜にとって人が何かを施すことが本当に必要な行為なのか?それが作物の力を弱め農薬に依存せざるを得ない現実を招いている。
作物は自分で育つもの、この原則をもう一度噛みしめたいものです。
※無肥料でもきちんと育ちます!